「仕方がない」ということ
とある人と「看取り」や「死の喪失感」について、とりとめのない話をしていた。
そこで、ふと感じた。
戦中戦後、いやもっと前から。
医療も今ほど技術が無かったころ。
肺炎やはしかや栄養失調や…
幼子はそんなものでも、死へ繋がっていた。
大人も、危険は身近にあった。
高齢の利用者と話していても
そういうエピソードがとても多かったことは想像できる。
「3人子供がいる。本当は5人だけど二人は死んじゃったの。」
「本当は次女なんだけど、長女は2歳で死んだから私が長女。」
そんなのざらだ。
親は戦争で死んだ。
自分以外の家族は空襲で全滅。
戦争による家族の死も、沢山。
「かわいい子だったわよ。でも弱くてね。あの頃は悲しむ暇もなかった。他にも子供はいたし、食べさせるのに精一杯だった。」
「自分が生きるのに大変でそれどころじゃなかった」
「あの頃はお医者さんにかかるのは贅沢だったもの。かかったところで薬代が払えない。」
命のことでも 「仕方がない」 だらけだった時代。
そうじゃない世界を求めて人は前進してきたのだろう。
悲劇が繰り返されないことを祈り
大切なひとを守れる世の中を求めて。
そして今がある。
そんな恩恵に預かってきた私に
昔の悲劇は「知っている」こととは言えない。
「わかります」と言える話じゃない。
それでもあえて…。
苦悩から、理想の世界を求めて人は努力をしてきた。
でも、苦しみのない桃源郷は造り出せない。
光を当てれば闇は濃くなる。
姿を変えて悲劇は生み出される。
安楽は容易に慣れ親しみ、更なる快適を求める。
当たり前の悲しみが、想像を越える恐怖になる。
そこには脆弱になっていく人間がいる。
闇から目をそらすことが許される世界がある。
個人的な理想を追い求めるゆとりが生まれる。
何かに、誰かに、どっぷりと依存していても生きていける社会がある。
Et in Arcadia ego
" 私(死神)はアルカディアにさえ存在している"
現代の恩恵にあずかってきた人ほど
「死」 の恐怖にさいなまれている気がする。
現代の闇を甘んじて享受してきた人ほど
「死」 を見つめる力があるような気がする。
私の個人的な感覚として。
人の命には格差がある。
それは人の存在に格差があるのと直結する。
命が平等に扱われていないのが現実。
そして、美しい(と思わせる)ものに人は吸い寄せられる。
理想に近いものを見ようとする。
人によっては「苦痛」を美しいと解釈する人もいる。
「快適」を美しいと思う多数の人と同じこと。
どちらにしろ、これは快楽を求める行為。
医療介護の業界にいて、ちょくちょく感じる。
グレープロパガンダがホワイトプロパガンダのように見える。
「仕方がない」は
現代社会ではどちらかというと否定される思考なのかもしれない。
が、あきらめや言い訳と同義語とされてはいないか。
本来の「仕方がない」は
現状を受け入れる力だったり
その後の結果も含めて見通した上で
現実的に行動を起こす理由だったりしたのではないか。
理想ではない
綺麗ではない自分の生きざまを
自分で受け止めるための言葉だったんじゃないか。
「仕方がない」社会は……そんなにいけないものなのだろうか?